会社沿革

Achievements
  • 昭和16年 1941年 初代社長 平井庄兵衛 仙台市一番町にて雑貨店を創業
  • 昭和16年 1941年 販路拡張のため福島市本町5番地に福島店を出店
  • 昭和19年 1943年 福島市本町 歓工場火災 により福島店全焼
  • 昭和20年 1945年 仙台空襲で仙台 一番町店・上杉店・肴町店 3店舗焼失
  • 昭和20年 1945年 本社を仙台市から福島市に移転
  • 昭和21年 1946年 福島市本町2番1号に金物小売店移転
  • 昭和22年 1947年 家庭金物問屋として卸部新設
  • 昭和28年 1953年 福島市早稲町24番地に卸部移転
  • 昭和30年 1955年 福島市本町2番1号に金物小売店新築
  • 昭和36年 1961年 福島市北五老内7-27に卸部移転
  • 昭和37年 1962年 会社設立 株式会社ひらいに改名 資本金1000万円
  • 昭和44年 1969年 福島卸商団地協同組合設立 初代理事長に平井庄兵衛 就任
  • 昭和45年 1970年 福島市本町2番1号にひらいビルを新築して小売部入居
  • 昭和47年 1972年 平井義男 代表取締役社長就任
  • 昭和48年 1973年   平井庄兵衛 勲五等瑞宝章 受章
  • 昭和48年 1973年 福島市鎌田字卸町19-2に本社社屋新築 卸部移転
  • 昭和49年 1974年 共同仕入機構 全国金物連合商業協同組合発足
  • 昭和53年 1978年 小売部閉店 家庭金物卸売業としての道を歩む
  • 昭和59年 1984年 仙台営業所 新設
  • 平成04年 1992年 創業51年 会社設立30周年を迎える
  • 平成04年 1992年 平井義男 福島卸商団地協同組合 理事長就任
  • 平成04年 1992年 平井三義 代表取締役社長就任
  • 平成08年 1996年 平井義男  全国金物商業協同組合 理事長就任
  • 平成14年 2002年 創業61年 会社設立40周年を迎える
  • 平成16年 2004年 阿部元司 代表取締役社長就任
  • 平成19年 2007年 創業66年 会社設立45周年を迎える
  • 平成20年 2008年 発注 新システムメールEDI導入
  • 平成24年 2012年 創業71年 会社設立50周年を迎える
  • 平成26年 2014年 整体×骨盤カラダファクトリ―仙台シリウス一番町店オープン
  • 平成30年 2018年 平井博眞 代表取締役社長就任
  • 平成30年 2018年 整体×骨盤カラダファクトリー仙台ロフト店オープン
  • 令和02年 2020年 カラダファクトリ―仙台シリウス一番町を仙台ロフト店に統合
  • 令和01年 2019年 岩手県盛岡市に出張所開設
  • 令和02年 2020年 ホームページをリニュアル
  • 令和04年 2022年 共同仕入機構 全国金物連合商業協同組合 解散
  • 令和04年 2022年 共同仕入機構 全国家庭用品卸商業協同組合 加入
  • 令和04年 2022年 創業81年 会社設立60周年を迎える 
  • 令和05年 2023年 平井邦宏 代表取締役社長就任

焼野原からの再出発    仙台から福島へ

空襲後の仙台の街1945年7月10日当時、仙台駅から西公園が見渡せるほど中心部は焼け野原となりました。

創業者 平井庄兵衛が雑貨商を始め、仙台市にあった一番町店、肴町店、上杉店の3店舗、そして4店舗目として福島店を出店したのが1941年でした。
その年1941年(昭和16年)は第二次世界大戦が勃発した年であり、先行きの見えない不安定な時期でした。そして創業して3年目、福島店でもらい火を受け、全焼してしまうという災難に見舞われました。悲劇はこれにとどまらず翌年の1945年仙台空襲という運命を変える出来事が起こりました。
1945年7月10日みんなが寝静まった真夜中の午前零時。123機のB29が仙台市の上空を飛び13000発の焼夷弾が投下され仙台の中心部は、たちまち火の海となり、街中が焼け野原となりました。仙台駅から西公園が見渡せるほど中心部は焼け野原となり、夜が明けると焼け焦がれた死体が通りに横たわっていたそうです。
店舗も住んでいた家も焼失し、空爆のない福島市に避難しそのまま福島に移り住むようになりました。創業者にとって人生の中で一番苦難の時期でした。
その後、本社を仙台市から福島市に移転、家庭金物の卸・小売りの道を歩みました。戦時中、市民から回収した金属が兵器にかわり戦後、家庭金物は空前の金偏景気を生み出しました。それに加えて復興需要の波に乗り、業績を伸ばすことができ1962年に株式会社ひらいとして会社設立し、陣容を整え、紆余曲折を経ながら今日に至っております。
創業者が誰も知らない福島の地に来て、大切にしてきたのは【人とのつながり】であり、これからも、お一人お一人のお客様への感謝を忘れずに、社員一同、精一杯努力してまいります。今後も、変わらぬご支援をよろしくお願い致します。

昭和30年(1955年)福島市本町 駅前通り
ようやく車が目立つようになってきた。チンチン電車が市民の足として活躍している。左側、氷水の看板の隣奥の建物が平井金物店。右側の建物は福島市の昭和初期のシンボルの福ビル(昭和2年~昭和47年)キーテナントとして不二デパートが入居。当時、ことわざで『本町の4つの角を制する者は福島を制する』と言われるほど本町は福島市の商業の中心であった。
昭和30年 1955年 福島市駅前周辺地図
明治から大正、昭和初期にかけて福島市は繭・生糸産地として栄え、福島市の産業として繭・生糸は当時取引額が最も多く東北でも有力な生産地であった。そこで日本銀行福島支店が、明治32年(1899年)全国では8番目、東北地方では最初に福島市に開設したことからもいかに、繭・生糸の産業が栄えていたことがうかがえる。その後、他の地方でも大量に生産されるようになり、製糸業は苦戦をしいられる。その後、戦後の復興が進み、高度経済成長時代の昭和41(1966)年、国道13号信夫山トンネル、昭和42(1967)年には、国道4号バイパスが開通するなど、急増する車社会に対し、道路網の整備が行われた。昭和46(1971)年には長年続いた路面電車が廃止され、昭和57(1982)年に東北新幹線が開通した。昭和30年当時、平井金物店の小売部の店舗は本町、現在のひらいビル跡に1店舗と福島市男女参画センター跡に1店舗あり卸部は早稲町にあった。